topic-14
50年間米軍の爆撃に蹂躙された土地、梅香里を行く【PRESSIAN】2022.07.13
ファン・ナムスン【平和統一市民行動】事務局長

言論協同組合【PRESSIAN】は、南北の和解と平和統一のための市民の集いである【平和統一市民行動】(代表イ・ジンホ)の「2022平和統一市民講座」を連載します。
 今年で6回目を迎える平和統一市民講座は、国家保安法、北韓を正しく知る、韓米関係、米中戦略競争、平和紀行をテーマに、4月16日から12月17日まで毎月第3土曜日の午後3時、新村(シンチョン)で行われます。
 以下は6月18日、全晩奎(チョン・マンギュ)【梅香里米空軍爆撃場撤廃のための住民対策委員会】委員長が、梅香里(メヒャンニ)で行った現場講演及び紀行を整理した主要内容です。


2000年6月2日、1ヵ月前にあった米軍の誤爆に対する抗議の記者会見が終わる前に、普通でいられないほどの強い騒音と振動が梅香里に響いた。梅香里に爆撃訓練を知らせる黄色い旗が9本上がった。当時、【梅香里米空軍爆撃場撤廃のための住民対策委員会】委員長だった全晩奎委員長が、黄色の旗を破って降りて行ってしまった。

 村のまん中にあった米軍爆撃訓練場(KOON-NI 射撃場)の機銃射撃は同年8月に中断され、2005年8月には濃(ノン)島をはじめとする梅香里爆撃訓練場全体が閉鎖されて住民たちに戻された。

 人々が農業を営んでいた村の真ん中に射撃訓練場があった所、住民たちが干潟で魚を獲ってアサリを掘っていた海と濃島に、一日600個を超える爆弾投下があった所、平和を取り戻すための住民たちの凄絶な闘いあった京畿道華城(ファソン)市梅香里を訪れた。

 爆弾が降り注いだ梅香里

 朝鮮戦争のまっ最中だった1951年8月、梅香里の濃島で爆撃練習が始まった。米ソ冷戦が崩壊する前の1980年代末まで、月曜日から土曜日、ある日は午前2時まで爆撃練習が行われた。特別な期間には3週間、24時間ずっと爆撃訓練が行われた。
 村のまん中にあったKOON-NI 射撃場内に爆撃表示板を設置し、村の上空を旋回しながら爆弾を投下して機関銃を発射したため、必然的に人命被害が出るしかなかった。妊娠8ヶ月の妊婦が誤爆で死亡し、12歳の少女が砲弾の破片で足が不自由になった。不発弾で遊んでいた4人の子供たちが、その不発弾が爆発して死亡した。被害住民713世帯4000人余り。誤爆事故と不発弾爆発で死亡した人12人。重傷やけが人は15人になった。
 騒音による住民の精神的苦痛は言葉では言い表せなかった。住民の大多数が難聴を患って性格が粗暴になったり、自ら命を絶った人も数え切れないほどいた。
 太平洋米空軍司令部傘下の韓国駐留第7空軍51戦闘飛行団は、1日平均11.5時間訓練を行った。一日15~30分間隔で一日だけで600回の射撃が行われ、年間訓練日は250日に達した。
 “コオンニ”。英語の発音で「クニ(KOON-NI)射撃場」と呼ばれたここを、米軍は1955年、海辺の丘にきれいに咲いていたハマナス群落地を重装備で押し出し、機銃射撃場と爆撃練習場を作った。
 戦争のような恐怖と騒音が当然で、韓国人なら当然耐えなければならないと思っていた梅香里住民たちは、全晩奎委員長を先頭にして1988年に村のまん中の米軍基地前で闘いを始めた。
 1988年12月12日当時、米軍基地前、現在の梅香里平和歴史館がある場所で初めての集会を開催した。1989年2月未明、刑事100人余りが投入されて住民対策委員たちを逮捕していった。その時、村の中学生たちが誰かがやらせたわけでもないのに火炎瓶を作って、米軍基地の警備哨所と米軍基地施設に投擲して抗議行動を行った。更に大きな暴動が発生すると、警察は対策委員らを解放した。

韓国の大統領より有名だった全晩奎

 1989年3月当時、最大の韓米連合軍事演習であるチームスピリット演習期間に、国内ではあまり知られていなかったが、米国メディアには特筆されたKOON-NI 射撃場・米軍基地占拠闘争が起きた。チームスピリット演習を控えて、韓国の国防部は全晩奎委員長をはじめとした村の住民たちを呼び入れ、訓練期間中に抗議行動をしないよう頼んだ。
 全晩奎委員長がこれを拒否すると、米軍が全晩奎委員長の農地に砂利を注ぎ込んだ。全晩奎委員長は、米軍が落とした不発弾の雷管と爆薬を除去して作った鐘を鳴らし、村の青年たちを集めた。
 150人の住民は射撃場内の管制塔を占拠し、レーダーなどを破壊して火を付け、米軍が爆撃訓練をできないようにした。地下バンカーに隠れた米軍を救出するため、完全武装した機動打撃隊がヘリコプターで出動すると、住民たちはヘリの着陸を阻止するために裸で横たわった。機動打撃隊は住民を銃で脅かし、閉じ込められている米軍を救出していった。
 この時の状況は韓国ではマスコミ1社のみ短く報道されたが、米国では大きく報道された。米軍基地が占拠され、放火と破壊が行われたのだから、米国民にとっては大変なことだった。当時、米国メディアには韓国大統領より‘テロリストの全晩奎’がよく出ていたという。当時【ロイター通信】に報道された記事を担当記者がファックスで送ってくれ、資料として所蔵している。
 韓米両国は大騒ぎになり、全晩奎に指名手配が掛かった。しかし、全晩奎委員長を止めることはできなかった。汝矣島(ヨイド)の【統一民主党】党本部に行くためにバスに乗った。そのバスの中で自分に対する手配ニュースを聞いたという。
 【統一民主党】党本部に入る前に麻浦(マポ)署の刑事らに連行された彼は、1989年6月2日、軍事施設保護法違反などの容疑で初めて拘束され、1審で懲役1年6月、控訴審で執行猶予判決を受け、8ヵ月後の1990年2月に釈放された。彼の拘束とともに町内住民50人余りも軍事施設保護法違反などの疑いで警察の調査を受けた。

 住民たちが直接爆弾除去に乗り出す

 米軍の爆撃54年間で注ぎ込んだ爆弾の量は莫大だった。不発弾と重金属汚染が相当だったが、米軍はまともな環境浄化なしに韓国政府に返還して、韓国政府は国防部、海洋水産部、国土部が互いに責任を転嫁しながら、濃島とその周辺の干潟を環境浄化なしに放置した。
 住民たちが不発弾を貨物車に積んで上京し、剃髪までして闘争したが政府はびくともせず、一日も早く濃島周辺の干潟で安全に操業することを望んだ住民たちが、直接、爆弾回収作業に乗り出した。
 秋の収穫に使われたコンバインを改造して軌道車輪を付け、干潟を横切って爆弾回収作業を行った。大きさが3m、900㎏を超える爆弾が無数に打ち込まれており、1950年代に投下した不発弾もあった。10年余りの回収作業の末、集められた薬莢を梅香里平和歴史館前に展示しておいた。
 住民たちが爆弾を回収して置いておくと、ようやく空軍の爆発物処理班が出てきて、雷管が生きている爆弾を回収して、雷管除去後に再び持ってきた。

 まだ火薬の煙が出る濃島

 住民たちは表面にあった爆弾を回収しただけで、干潟に埋もれている薬莢は干潟の中にそのままある。満ち潮と引き潮を繰り返しながら干潟の薬莢が濃島に押し寄せ、この薬莢を回収する住民たちが依然としている。長い間干潟に埋まっていた薬莢は、火薬が空気と接触すると煙が出て火が付いたりもする。
 木が多くて濃い農の字を使って濃島になったこの島は、米国の爆弾投下訓練で島の3分の2が吹っ飛んだ状態だ。木々が鬱蒼としていた島は爆撃訓練で木々が消えたが、爆撃訓練が中断されて17年が過ぎた今、紫色の黄色い野草が育って天然記念物の水鳥が訪れる。

 KOON-NI射撃場に残っている米軍基地の建物

 米空軍の陸上射撃場だったKOON-NI射撃場の中には、梅香里平和記念館が開館を控えており、幼少年野球団のための野球場と平和生態公園が造成されている。世界的な建築家のマリオ・ボタが設計した平和記念館の慰霊碑に登ると、梅香里村が一望できる。陸上機銃射撃の標的板があった所は村のまん中にあった。
 近くに民家があって、戦争状況を生々しく感じることができるA級訓練所がKOON-NI射撃場だった。海と陸地を合わせて2400万㎡(690万坪)の規模を備えたアジア最大空軍爆撃訓練場だった。ここは駐韓米軍だけでなくフィリピン、沖縄、グアムからも飛んできて爆撃訓練を行った。
 京畿道1号建築資産に登録された梅香里KOON-NI射撃場の中に入った。ここは、米空軍司令部傘下の韓国駐留第7空軍51戦闘飛行団所属のKOON-NI AIRレンジャーズ部隊が駐留していた所だ。当初、米軍が撤収しつつ米軍が使用していた建物も撤去する予定だったが、住民たちが強く建議してそのまま残ることになった。ここには米軍宿舎と遊興施設、射撃統制室、ヘリウム貯蔵所、体力鍛錬室、将校兵舎、食堂と事務室、衛兵所などが残っている。

JAMIEKOON-NIRANGEMASCOT,18YEARS

 KOON-NI射撃場に入ると石碑が目につく。“JAMIE KOON-NI RANGE MASCOT 18YEARS。8MAR92”。愛犬の死に対しても墓を作って碑石を作ってあげた米軍だった。しかし、米軍の誤爆や不発弾によって死亡した子供たちは、補償どころか葬儀費さえ受け取れなかった。父親たちは引き裂かれた子供をかますに入れて背負い、砂場に埋めなければならなかった。韓国の現代史は残酷で、国民は口がきけない状態で生きることを強要された。
 ここは戦闘機が爆弾を積んで出撃し、目標物に投下すれば、その目標物に正確に当たったか採点する場所だったため、多くの兵力は必要なくて米軍10人余りが駐屯した。米軍の休息のために室内バスケットボール場、踊りながら酒を飲める遊興施設が用意されていた。ここはその後、戦闘機の騒音を直接体験できる場所にリモデリングする予定だ。
 爆弾投下の前、風の方向と強さを正確に知るためにあらかじめ風船を浮かべた。風船に入れたヘリウム貯蔵所と、戦闘機と交信した通信アンテナも残っている。2階建ての射撃統制室に上がった。米軍が戦闘機を統制しながら爆撃結果を採点した場所だ。遠くの野球場があった所でコンテナと自動車を標的に小型爆弾投下訓練を行い、海辺には円形標的を掛けて機銃射撃訓練を行った。
 沖縄などの海外から出撃してくるパイロットたちは、最初は地形がよく分からず、誤爆事故を多く起こし、村に爆弾がたくさん落ちた。

 記憶するために奪って展示した場所、平和歴史館

 平和歴史館がある場所は、基地閉鎖闘争が盛んだった当時に闘争本部があった所だ。ここで1988年12月12日に初めての集会を開き、1995年に個人が建てた農作業倉庫を賃貸して闘争本部として使った。
 ここは梅香里村のまん中に位置し、陸上機銃射撃と小型爆弾投下場、そして濃島が一望できる場所だ。戦闘機は訓練のため低空飛行して、すぐこの屋上を通過した。ここでは米軍パイロットのヘルメットまで全部見えた。
 平和歴史館に展示された多くの物は、全晩奎委員長と住民が米軍から奪った物だ。戦争の恐怖を記憶して平和を守るため、当時の薬莢と建物を保存しなければならなかった。海水が引いた干潟の上でも走れるよう、ボートにプロペラをつけた水陸両用ボートがある。
 米軍の夜間爆撃訓練の際には誘導線を設置しなければならなかったが、満ち潮に関わらず濃島を行き来する移動器具が必要だった米軍が改造したのだ。米軍が最後に撤収する時、米軍責任者が本国に持って行こうとしたものを、全晩奎委員長が奪ってここに展示した。
 平和歴史館には、濃島と陸上射撃場内で標的として使われていたコンテナと自動車が、穴がぼこぼこ空いた状態で展示されている。これらの標的物は週に1回交換されたそうだ。
 50年の米軍爆撃訓練期間中、梅香里は米軍の訓練場であっただけで、住民と村は訓練中の米軍から実戦のような緊張感を与えられる装置に過ぎなかった。梅香里住民たちの凄絶な闘いで爆撃訓練場は閉鎖されたが、米軍は太白必勝(テペク・ピルスン)射撃場と稷島(チクト)に訓練場を移し、依然として韓国の土地を標的にして訓練を日常的に行っている。
 群山沖70km余り離れた稷島(チクト)は無人島で、中型爆弾投下訓練を行っており、寧越(ニョンウォル)太白山の必勝射撃場は機関砲射撃など通常戦力が行われている。ここでは米軍パイロットたちが訓練効果を上げることができず不満が多いという。
 この他にも抱川(ポチョン)のロドリゲス訓練場、浦項(ポハン)の水城(スソン)射撃場で絶え間なく続けられてきた戦車とアパッチヘリの射撃訓練による振動と騒音で、住民たちが苦痛を受けてきた。米軍はこれに抗議する住民たちに『ヘリコプターの騒音を“韓国の民主主義と自由を守る声”と考えてほしい』と話した。
 最後に、全晩奎委員長のテレビ討論出演当時、ある討論者が『それなら米軍爆撃場がどこに行ってほしいか』と尋ねた際の全晩奎委員長の返事を紹介する。
 『米軍の爆撃で韓国住民たちは言葉では言い表せない苦痛を経験した。この爆撃場がどこかに運ばれ、また誰かが被害を受けることを望まない。米軍爆撃場が必要ない世界が来るべきだ』
 50年間、戦争のような恐怖を経験した梅香里は、今や平和と生態の空間として生まれ変わっている。コロナ禍によって少なくなったが、平和を考える学生たちが訪れ、干潟体験のために幼稚園の子どもたちもここを訪れる。
 梅香里平和村建設委員会推進委員長でもある全晩奎委員長は、『梅香里平和記念館が開館すれば、必ず再び訪れてほしい』と呼びかけた。■

原文出典URL → https://www.pressian.com/pages/articles/2022071214193894475?utm_source=naver&utm_medium=search