日本全国にある米軍基地の周辺では、駐屯する米軍人、軍属による犯罪が絶え間なく発生してきました。
 でも、1972年まで米軍制下にあった沖縄ではもちろん、その他の地域でも、日本の法律できちんと犯罪者を裁けてこれなかった事実があります。つまり、事件や事故は被害者側にとって解決とは程遠い状態のままで終わらされてきたのです。
 あまりにも頻発する米軍人、軍属による犯罪に対して、日米両政府はその度ごとに厳正な対処を唱えますが、在日米軍の法的な地位を規定している「日米地位協定」の不平等性が改正されることはなく、被害者は泣き寝入りを強いられてきました。
 しかし、1995年に沖縄で起きた「少女暴行事件」に対する全国的な関心の高まりや、事件被害者の遺族が裁判に訴える動きが生まれ、1996年4月に「米軍人・軍属による事件被害者の会」が結成されました。
 それ以降、日本社会では初めて米軍犯罪による被害者・遺族への民間の救援活動が組織的に行われるようになり、 具体的には、「事件・事故の被害者・遺族への適正補償を求める裁判闘争」での勝訴獲得をはじめとして、「被害者・遺族に対する心のサポート作業」、また、米軍犯罪を野放しにしないための、「米軍構成員及び家族の任意保険加入」や「軍用車輌のナンバープレート装着」などを実現させてきました。
 一方で、「日米地位協定」の改正要求とともに、「被害者・遺族救済のための国内法整備」の必要性が活動の中心として浮上し、「民事特別法改定案」「被害者補償法大綱案」の検討から「日本国に駐留するアメリカ合衆国軍隊等による損害賠償法案」の制定運動が活動の主流となりながら、「法制定運動」という活動の側面が濃くなることに伴って、犯罪被害の当事者で構成する「米軍人・軍属による事件被害者の会」と、それを支援する「米軍人・軍属による事件被害者を支える会」を分離して運営することになりました。
 「米軍人・軍属による事件被害者の会」は沖縄に事務局を置いたまま、「米軍人・軍属による事件被害者を支える会」は1999年に関東と関西に事務局を置くようになり、その中でも関東事務局は、名称も「米軍人・軍属による事件被害者を支え損害賠償法をつくる会」(後に「支える会」関東事務局と改称)として法制定の中心的な役割を担ってきました。
 ところが、関西事務局を中心に「米軍人・軍属による事件被害者を支える会」として「何を支え支援していくのか・・・」という具体的な課題が徐々に見え難くなり、あらゆる側面で会の機能は停滞して構成員の意識は低下していきました。
 しかし、この様な状況の中でも、後を絶たない米軍犯罪とその被害者の実態を見て、いま一度「米軍人・軍属による事件被害者の会」と「米軍人・軍属による事件被害者を支える会」の設立原点に立ち返り、日米安保条約と日米地位協定によって米軍犯罪の温床となっている日本社会に於いて、何よりも、塗炭の苦しみを一方的に強要され続けている犯罪被害者・遺族の救援と、米軍犯罪そのものの生じさせない社会の創造に向けた運動を再び活性化する必要性を思い起こし、そのための組織改編と新しい体制の下で活動を再開することに思いを集めて、2007年に「米軍犯罪被害者救援センター」として再スタートするに至りました。

活動方針
1.米軍人、軍属による犯罪・事故に関する情報を収集し、被害者救援に役立つ情報発信を行う。
2.米軍人、軍属による犯罪・事故 の被害者救援のために、被害者の相談窓口を常備する。
3.米軍人、軍属による犯罪・事故そのものを生じさせない社会の創造をめざして活動する。